オーストラリア時代の体験談 後編
後編である。
ワイナリーでの仕事が終わってからは第二の故郷シドニーへと戻った。
前まで住んでいたとはいえまた家探しや仕事探しから始まる。
まずは家探し、2014年まで住んでいた頃はずっとボンダイジャンクションというビーチから徒歩30分ほどの場所で住んでいた。
ボンダイジャンクションはシドニー中心地からは電車で10分ほどの場所。
シェアハウス探し
都会暮らしがしたかった私からすると、少し物足りない場所だったので、今年こそは大都会の「セントラル」という駅近である。
一般的にワーホリをしている日本人は皆シェアハウスを利用する。
ほとんどのシェアハウスはレントと呼ばれる1週間の家賃と、デポジットと呼ばれる契約金(レントの2週間分)を支払うとその日から入居できるシステムだ。
私が選んだ物件は駅から徒歩2分という最高のロケーションで、レント(1週間分)は$165というそんなに高くも安くもないという普通の物件であった。
そこに住んでいたのは韓国人男性が2人とイタリア人男性1人。そこの私が入り計4人の国籍バラバラの男性で埋め尽くされた一部屋だった。
男子部屋は以上の1室で、女子部屋も存在する。
女子は韓国人女性が2人と日本人女性1人という部屋の構成だった。
男女合わせて計7人でのシェアハウスが始まるのだ。
。。。テラスハウス的なノリを超期待していたのだがそんな上手い話もなく、シェアメイトと喧嘩したり韓国人女性のシェアメイトのことが嫌いになってしまったりと、人間関係の問題で入居後3ヶ月後ほどで退去してしまったのは仕方のない話であった。
仕事探し
おそらくレジュメ(履歴書的なもの)を20〜30枚ほどは手渡しで配りに行ったと思う。
一番最初のラーメン屋のトラウマがあったため日本食レストランはなんとか避けないといけない。そして飲食店はそれなりに経験したので次は人としゃべるようなサービス業的なものにも英語で触れてみたいという小さく弱い意思があったため、ほとんどレジュメを配りに行った先は服屋さんや靴屋さん、コンビニやお土産やさん、たくさんのお店に足を運んだ。
そのたくさんのお店の中に含まれていたのがこちら
スーパードライという日本国外ではノリに乗っているブランドだ。
すごく意味のわからない日本語がプリントされたTシャツ、一度はトライしてみたいなと思いながらレジュメを配ったが結果は面接までもできずに終わったのだった。。
結局見つけたのはコンビニだった。
コンビニといっても新聞さえ置いていない個人商店のようなお店だった。
ここではレジ打ちや仕入れ、品出しやうざいオージーのクレーム処理など、お店の仕事を1人で回していた。
この職場の時給は$12。
コンビニのバイトだけで日本円にすると1ヶ月20万円ほど稼いでいた。
ここまでの家や仕事を手にいれるのにかかった期間は1ヶ月と少し。
1年目と比べると小さな成長を感じていたのはいいが物足りなくもなってくるもの。
そこで次に手を出したのがコレ
Youtube
これは完全に趣味で行っていた活動だが、動画更新していくうちにチャンネル登録者も増え街でたまにメッセージがきたりアンチが湧いたりするようにまでなったのは楽しかった思い出だ。
このチャンネルでは主にワーホリや留学をしている日本人のためやこれからオーストラリアに行ってみたい人に向けた情報発信などを行っていた。
イベントづくり
当時の私は19歳。シドニーでは日本人同世代の子たちと触れ合う機会が本当にないなと感じていたのもあり、「ミートアップ」と呼ばれるパーティーをほぼ毎週開催していた。
私とyoutubeの相方がオーガナイズをし、お酒やフード、場所を自分たちが手配するという簡単なことが主にやらなければいけないことだった。
このイベントは毎週10人近く同世代が集まることもでき刺激を与え与えられいいイベントだった思い出だ。
実際にこうして小さいものではあったがイベントづくりに自分で触れてみて思ったのは、すごく楽しいということ。
人は何をすれば行ってみたいと思うのか、どういう文章の書き方をすればメールをくれるようになるのかなど、気づく点も多く難しさも感じた。
こうしてパーティをやっていて人が集まっていくような環境づくりを徳島でしてみるとどうなるんだろうと思ったのがG'day徳島の始まりの一つでもあった。
2年間の海外暮らし
実家から初めて自立した場所が海外だっただけの話だったのだが、この2年間で得れたものはこれからの人生においてかなり影響を受けたとおもう。
結局の所18歳だった私は刺激を求めて徳島からオーストラリアへ出た。
この頃は周りの人たちにもいろんなことを言われながら旅立った。
「何しに行くの?」
「帰ってきて就職しないん?」
「意味あるの?」
そんなことを言ってくる人の言葉は当時の私には全く響かなかった。
当時18歳。なんだってできるし、どう転んでもやり直しもきく年齢なので転びながら生きていこうと思っていた。
2年間で得れたものは我ながら大きかったと思う。
正直当時の私の英語力はヤバかった。
vegetable=野菜の意味さえ知らないレベルだった。
Hello.How are you?程度しか知らなかった英語力も現地で仕事ができるほどまでは伸びた。
その他に当時の私は超絶人見知り。
単純に人が嫌いだったのだが、そんな人見知りも克服できたのは海外に出たおかげだと思う。
その他にもローカルの仕事に触れてみて思った日本人にはないファニーマインドや、仕事に対しての姿勢も日本にはなかなか無いものだったと思うし、これからのG'day徳島のチャレンジにも活かすことができると思っている。
留学・ワーホリを考えているあなたへ
ごちゃごちゃ言わずバックパック背負って世界に出てみよう。
ビビることもない。どこだって生きていける。
1年間旅行する感覚で海外に出てみるのも悪く無いかもしれない。
どのように転んでもある程度人はやり直しがきくものだ。
一度きりの人生、旅をしてみてもいいのではないだろうか。
ワーホリなんて20万円ほどあればできる時代だ。
Facebookなどで現地で住む日本人コミュニティを探したり、投稿を毎回チェックしているとアルバイトの雇用情報なども流れてくるので仕事も見つからないこともない。
オーストラリアで言えば JAMS.TVをチェックすれば生活において必要な情報がすべて記載されている。
気軽に世界に出てみるのも悪く無いかもしれない。
http://tokushima1111.wix.com/gdaytokushima
こちらではお問い合わせや仕事依頼も受け付けているのでぜひ活用していただきたい。
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By G'day徳島